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レコードチャイナ 配信日時:2012年11月18日 8時33分
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中国人内部の声、メディアでは伝わらず~「反日」デモ私見2
「反日」デモは、表面的にはひとまずは収束したように見える。
これは、今世界的にもチャイナウォッチの焦点が11月開催の第18回共産党大会の方に移ったせいでもある。
「反日」デモについて、引き続き日本側において考えられる要因をより構造的な次元で指摘し、今後の対中「社会」間関係を考えるきっかけとしたい。
■「絵」にかき消された冷静な視点
まず何よりも、今回の「反日」デモの第一報を知ったのは日本国内のメディア報道を通じてという人が大半だったのではなかろうか?
マスメディアを通じてでなければ日々の基本的な事実を知ることはできないわけで、そういう点においては、メディアはきちんと第一義的には自分の役割を果たしたとはいえる。
ただし、メディアがそれ以上に事態を拡大解釈して伝えてしまったことも否めないのではないか。
特にテレビメディアがそうだったことは否めない。
暴徒による破壊活動という、これまたテレビ向きの行動は目論見通り日本のみならず世界中のテレビカメラをとらえることになった。
筆者はこうした暴徒による破壊活動は許容されるべきではないと考えるが、問題は歴史的な次元での日本批判が彼らの活動のみに矮小化されることになり、その背後にある冷静的な批判や自らの内側から事態を冷却化させようとした中国人内部の声はほとんどマスを相手にしたメディアでは伝わらなかったという点にある。
しかし実のところ筆者がこの「反日」デモ前後から始めた中国版ツイッター「微博」では結構早い段階から理性的な愛国を訴える声はあったし、その中のいくつかはツイッターでも紹介された。
また影響力が限定的ではある知識人が主体とはいえ、尖閣問題に関し中国の主権を認める点を維持しつつ、これをあくまでも冷静な手段で訴えていく方向を示した署名が微博で回覧されていたし、日本側からもこれに呼応して知識人主体の宣言が公表された。
しかしこのような冷静さを維持した動きについては、残念ながら大手日本国内メディアの報道は後手に回った。
ただマスメディアは、「絵になる」情報に飛びつくのが必然で、地味で冷静な動きが後手に回るのもしかたがないかもしれない。
それよりも、私が長いスパンで問題と考えるのはそういったメディア言説の上位にあるメタ言説がきちんと機能しきれなかったことにある。
■「数」重視による多様性の軽視
メタ言説とは、例えば学術言説のように、世の中に誰にでもわかるような形で流通してはいないが、一般に人口に膾炙(かいしゃ)する言説―メディア言説はその一つだが―を上位から規定する言説のことを言う。
今回の「反日」デモが、戦後以来の長いスパンで見て日本国内の中国関連メタ言説の影響力が低下したことを証明したとすれば、それは2つの点が影響してのことと思われる。
★.1点は、国際政治における冷戦構造の後遺症であるが、これについては今回は言及しない。
それよりも日中関係や今回の事態に絡んでより重要ではないかと思われるのは、経済分野で構築されてきた「数」重視の言説である。
「数」重視の言説とは単純化して言えば、中国をあくまでも市場としてのみ、その頭数でしか見ようとしない言説であり、「中国市場はざっと見積もって13億人、進出しなければ乗り遅れる」というちょっと前まで主流だったあの議論である。
むろん企業サイドに立つ場合、こうした見方は排除できるものではなく筆者も全面否定するものではない。
しかし、これまで日本国内の経済分野であまりに主流になりすぎたこの言説においては、中国とは人の頭数のことであり、それに拘泥するあまり、そこにどのような多様な人々が存在しているのか、ということを余りにも軽視しすぎてきたのではないだろうか?
先日の「反日」デモであえて「暴徒」の側の立場になって考えてみた時、彼らは先日のような激しい動きを通じて、日本の経済界での主流を占めるこうした考え方に異議申立てをしたのではないかとも読める(そのやり方はたしかに問題があるが)。
そして彼らの批判の矛先は、そうした日本企業のあり方を進んで受け入れた中国政府にも実は向かっていたといえるのではないか。
なぜなら、「数」を強調する言説は中国自身が自らの企業誘致や国際政治上の圧力づくりのために繰り返してきた面もあるからだ。
■直接的な市民間交流に向けて
今回の「反日」デモはそのような、中国につきものの「数」重視の言説を再検討するきっかけになりうるのではないか。
ただしそれだけでは事態の再発防止には有効ではない。
同じように、完全否定はしないが再検討が必要と筆者が考えているものに「中国特殊論」がある。
これまでの「中国特殊論」をよい点は批判的に継承しつつ相対化し、国家やメディアによらない直接的な市民間の交流を進めることが大事と考える。
「中国特殊論」は何も日本国内に限ったことではないが、日本の場合、前近代からの中国からの影響力や戦前戦後の関係性などにより、欧米のそれに比べると言論空間に占める割合も大きい。
にもかかわらずこれまでは、その特殊性を過度に強調するあまり、一般的な次元の人々の中国への関心はむしろ失われることになってしまったのではないかと筆者は考えている。
確かに中国は特殊である。
かつてはそれを根拠に「チャイナスクール」の形成が図られてきたし、中国との交流ルートが限られていた時代は機能してきたとは言えるのだが、グローバル化を迎えて久しい今日、限界が来ているのは前回取り上げた外務省を見ても一目瞭然だ。
また特殊性ということなら、世界中のいずこもそうであり、そこを強調しすぎれば交流のしようがない。
さらに、中国自身も西側での議論に乗って特殊論を逆利用してきたフシもあり、結果的に中国をめぐる言論空間はこれまでは狭い範囲で閉鎖的に構築され続けてきたのではないか。
これが従来まで日本の一般市民層が中国を見るときに「なんとなく怖い」という感覚につながってきたように思われる
しかし最近では日中間で直接的な市民交流も拡大していることは否めない。
中国語の学習人口はその時々での増減はあるが、20年前からすれば比較にならないほど増加し、特殊言語の域は超えた。
「反日」デモ直後の現在は少々冷え込んでいるが、中国国内への旅行を含む移動も20年のスパンで見れば急増しているといえる。
だが何といってもここ数年での最大の変化は、中国人の海外渡航制限が緩和され日本への訪問者も増えたことだ。
彼らの大半がいわゆる反体制派ではない。
では全く中国当局の考え方に一枚岩的に同調しているかというとそうではなく、実はその考え方には様々なグラデーション(濃淡)が存在している。
以前からそうだったはずなのだが、このことが「数」を強調する言説や「特殊論」に阻まれ我々には見えなくなっていたのではないか
だとすると今回の事態は様々に負の作用をも生んだが、「数」重視の論理や「中国特殊論」の副作用に気づかせてくれたという点で、後から振り返った時に日中関係の契機になりうるものかもしれない。
少なくともそうなるように我々はこの2つを乗り越え、直接的な交流に乗り出していくこと、そしてこの2 つに代わる新しい交流の理論を考えていくべきではないだろうか。
(本田親史/国士舘大アジア・日本研究センター客員研究員<PD>)
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正直いうと、この言説は何を言おうとしているのだかよくわからない。
よくわからない、というのは力を持たないということでもあるが、学問的に探求する場合はそれでいいと思う。
つまり、こういう風に考えることもできますよ、ということである。
中国人の内部の声まで、日本人は考慮しなければいけないのか、
そこまでやらないと中国とは付き合えないのか、ということになると少なからず日本人にとっては負担になる。
ならば逆に、中国人は日本人の内部の声まで聞いて行動すべきだと、日本人は要求するだろうか。
まずしないだろう。
日本人だけが反省し続けて、中国人は勝手にふるまっていいという訳にもゆくまい。
少なくとも、同じ土俵にのるべきであってそれ以外のことを述べるのは学問的にはいいが、それ以外はただ日本人を卑下しろと要求することだけになる。
日本民族とはそこまで中国に媚びていかねばならないのか。
【中国共産党第18回全国代表大会】
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